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霊符効験のこと(二)
霊符といっても一般的には耳なれない存在である。
しかし、霊符の形象を見るとを見ると「どこかで見たような感じがあるなぁ」という人も案外多いものである。
霊符には当門の不動、愛染両百符並秘符以外に儒教、仙道、神道系等々あって多岐に及ぶがこれとて相伝する人はごく一部である。そして形象もさまざまであるが、いずれも人間が、日(太陽)月、星の三光の中に生かされているという観点に立つことは共通である。
いまでこそ、仏教とか神道、仙道といった形で区分しているが古来はおよそ同一融合の存在で、時代の変遷と共に変わって来たに他ならない。
神道、仏教が分離したのもごく近世で、天台密教系の修法などを見るとき神仏合一の形で今なおこの相承が行われているし、不自然さは一切ない。
ところで、当門伝承の霊符、不動百符には不動の梵字が、愛染百符には愛染の梵字が冠されている。
本来、霊符はその一符一符異なる形象に霊力効験を有しているわけであるが、これら梵字が冠されているということは、この霊符効験力に不動、愛染の仏力を加昧し、相乗の効果を願ったものである。
不動明王は世に広く知られ、形相はすさまじいが広く信仰を集めているという事実は、その御利益に浴したものが多数に及ぶからである。
ちなみに円宗院の本尊は、「不動明王」である。
誓願に於いて「我が身を見るものは菩提心を起こし、我が名を聞くものは悪を断ち善を修し、我が説を聞くものは大智慧を得、我が心を知るものは即身に成仏せん」と説くをもってその功徳も理解し得るものである。
一方、愛染明王は、悪魔降伏の為に武器を持って立つ「武」の明王で、愛敬(あいけい)を本誓とし、一切法中に独り無量の罪を滅ぼして衆願ことごとく満ち、霊験甚疾にして、衆星の光に類し、威徳の殊勝なることまことに珍し、とある。こういったことから、その威光がうかがい知れる。
両尊の真言は、
不動真言 曩莫三曼駄縛曰羅赦。戦陀摩訶路灑拏。蘇頗 耶吽 羅他
(なまくさまんだばさらなん、せんだまかろしやな、そわたやうんたらたかんまん)
愛染明王 吽柁枳吽蒟吽瑟地娑 賀(おん、うむだきうんじやく、うんしつちそわか)
さて、霊符それぞれに効験が記されているが、大要古記に基づくと下の様なことが霊示されている。
一、人間の幸、不幸、富、名誉、地位、寿命は三光の影影をうけている。
二、不幸が幸運にむかう手助けをする。
三、あきらめていたことが実現する。
四、天災、人災、厄難を消除する。
五、諸悪、鬼邪、難病、疫病の憂いを除く。
六、五穀、豊饒、福徳を与える。
七、悪を斥け、善を進ませる。
八、長生、不老を得、国土を擁護、萬民安穏。
次に七仏神呪経には本尊の功徳について
「我れ北辰菩薩、名づけて妙見という。
今神呪を説き国土を擁護せんと欲す、
所作甚だ奇特の故に妙見と名付く、
閤浮堤(えんぷだい)に処し衆星中最勝神仙中の仙、菩薩の大将、広く諸生を救う」
とあり、霊符三力として、行者の力、仏神の力、書写人の力が働くと説かれている。
なお霊符効験に関連して、
「世の人、霊符の効験につき、世の人、速かなるを期待するが、霊符は人の至誠に基く、感と応。信と不信の相対的関係にあり、霊符三、七日にて効験なき場合でも気線満つるを待つ。」なを、重ねて、重ねて、三、七日帯持するも一方便也。
気線探転(物事は見方を変えると新しい転回、展開あるごとく、気線即ち霊符を変えてみる)も一つといわれる。
これは、例えば薬の処方を代えると効能が変わるようなものであり、高山に登るときに甲という登坂口で頂上を極められないとき乙という登坂口を試みるようなものである。
よって効験が示現しなくてもあせらないことである。
大宇宙には三光を根元とする律動があり、その律動にあわせて人間に限らず動、植物一切のものがそれぞれ個有の波動を発している。三光を根元とする律動を現代的に解釈すれば引力、磁力、電磁波、赤外線等々のあまたがこれらに当たるものと思われ、人間、動植物一切が発する波動は、“気”に通ずる「意識」であり、「生体エネルギー」等々がこれにあたる。
わかりやすくいえば「霊符」の形象は、これら複合的な力に対して共鳴、修正、相乗の作用を起こし、加うるに人間の発する波動、即ち心底から念ずる強い力がこれ又作用するものと解釈してよい。まさに幽玄微妙な働きといえよう。
護身法のこと
「護身法」は霊符書写のはじめに必ず行う修法である。その後に「霊符開眼加持法」に於いて開白に用いるのである。
護身法でもって、行者の三密を清め、そして霊符を一心に書き上げ、本尊の前で開眼俗にいうお魂入れを行うのである。
さて、護身法は五種印明から成り立っている。護身法という名称は、被甲護身より出たものと思われるが、要は三業が清浄なれば恐るべきものはなく、邪悪なものが「気」からいえば邪気というものが付着しないということである。
そして、この護身法は、自己の身、口、意を清浄にして仏の三密と平等と思い、諸々の仏を自身の上に現し、罪を除き福徳を増すと感じるところにすべての義を含んでいる。
人間の行動というものを分析するとすべて「身」「口」「意」が連動しているわけで、身即ち手で印を結び、口に真言を発し、心を三昧に置くということである。
印は印契、印相ともいう、十指でもって種々の形を造り、諸仏の自内証の徳を標示するわけである。手は第二の脳ともいうように人間の想いを表現するものである。
ちなみに五指を小指から順次、地、水、火、風、空に配当し、左手を定、右手を慧とする。
そこで「浄三業」は、一切の諸法は自性清浄なるがゆえに清く、我れも又自性清浄なりということで、その意味の真言を唱えるわけである。
霊符に於て「形象」は一つのパワーを有すると述べたが、「真言」(ことば)も同じく一つの力を有する。そして語気云々というように「気」を含んでいる。会話のような一般的なものでなく「真言」というようにこれは聖句であるところから、なお強い力を含んでいるわけである。
さて、先にも三業について少しふれたが、これは人間の煩悩の活動の根源を成すもので、身の業は三つ、口の業は四つ、そして意の業は三つに依るとされ、これが浄三業という意味である。よって、その印を結んで、五処すなわち、額、右、左の肩、心臓、喉などを清めるのである。
密教に於いて喉は人の寿命とし、この喉に弥陀又は大日如来を配す。よってこの五処加持により自身に仏を顕現するのである。
そこで、この印でもって加持するということは、すなわち観想をするということである。この印を結びながら、額、右肩、左肩、心臓、喉と、印をめぐらしながら、同時に意識をその個所に運ぶということである。
いってみれば印と共にこの五カ所に「気」をめぐらすという事に通ずる。気功の練功の意念と同様で、気の流れを体内で高め大宇宙の気の受持を容易にすると共に、道交融合し、自分自身が小宇宙として大宇宙と感応することで、仏の顕現をはかるのである。次に、如来を発生する為に、その願望具現の方法として、三部被甲の印を結び真言を発する。
次に蓮華部の印を結ぶ。観自在の菩薩及び蓮華部の聖衆、行者を加持して、語業(口業)の清浄なることを獲得せしめ、音声威厳を持ち、言葉の音清く、その響き偉大にして、かつ人をして聴くことを願わしめ、諸説自在、弁舌卓妙を願うのである。要約すれば行者の口でもってなす行いの上に、蓮華部の諸々の仏の功徳が顕現してこれを浄化するから、説法自在が可能だというのである。
次に金剛部の印明であるが、これも蓮華部と同じく金剛を発生するために願う。
これは行者をして意業清浄なることを獲得せしめ、菩提心を発して速やかに解脱することができるとするのである。人間の智を司る金剛部の諸尊を行者の一念の上に発するので心が清くなり、菩提心が起きて、解脱の世界に住し得るというわけである。
次に被甲護身の印であるが、これは、極めて威光と光彩を放つ金剛の智恵の火によって身をまとい、諸々の悪魔をしりぞけて他を教化せしめることを願うのである。
そして如来の兜で身を守られているので、天魔たりとも慈悲心を起こし、その他の煩悩魔も障害となることはない。故に速やかに正しい悟りを得るというものである。
次に拍掌であるが、両手を打ちて声あらしめ、聖衆をして歓喜せしむ。そして拍掌には除障、驚愕、歓喜等の意味があり、多くの場合は歓喜の意味を持つ。
次に旋舞であるが、左手を前方に回し、右手を手前に回す。この形をもって両手を回転させるのである。この旋舞も喜びを表している。
そして最後に弾指(たんじ)である。この印は簡単な印であるが強い力を発するとされる。除霊、撥遺などのときにも力強くこれを上方にむけて行えば見事な結果を生ずる。
但し、この弾指印を用いるときは単に指先、また吽、吽という口先の真言だけではダメで全身全霊の意識を集中して、一気に霊を抜くのだと考えて行う必要がある。
護身法とあるように、これは身を守る法である。だから加持を行うとき邪気や、周囲のよけいな気をうけない為に、この護身法を修してから行うとよい。
霊符が、不思議と効験をいただいたという礼状が多いのもうなずけるのである。
急々( 々)如律令のこと
急々(護符によっては 々と書かれてある)如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)と読む。不動、愛染両霊符には等しくこの一文が付記されている。
秘符や、他の霊符に於いて同文のないものもあるが、この一文は呪文の一種と考えてよく本意は急々に律令のごとく厳しくせよという強い意が含まれている。
悪魔、生霊、死霊、この呪文を誦するとき、たちどころに退散し、霜に熱湯を注ぐが如きなりとも伝えられている。
当門古記には、「急々如律令」の一文を書くとき一息一筆にて行うは深秘、口傅である。
霊符書写心得のこと(一)
霊符書写するとき、まず「護身法」を修する。
次に、硯、墨、朱墨、筆を加持する。
次に、霊符用紙を左手に持ち、三鈷印にて加持する。
次にオン、シトナシトナ、アサシトナ、コモコモ、アミリテ、ウンパッタの真言をとなえ、次に筆を取りて不動霊符を書写する場合は慈救呪(不動真言)を唱えながら霊符を書くこと。
(口伝)急々如律令の一文は、一息一筆にて書くことで、これは深秘口伝也とある。
以上が不動霊符を書写する場合で、愛染霊符を書写する場合は同じく
先 護身法
次に、硯、墨、朱墨、筆を加持
次に、霊符用紙を左手に持ち、三鈷印にて加持する。
次に、オン、シトナシトナ、アサシトナ、コモモ、アミリテ、ウンパッタの真言をとなえ、次に筆を取りて、愛染呪をとなえながら霊符を書くこと。
(急々如律令の一文は一息一筆にて書く)
以上が愛染霊符を書写する場合である。
(付記)
不動真言 曩莫三曼駄縛曰羅赦。戦陀摩訶路灑拏。蘇頗 耶吽 羅他
(なまくさまんだばさらなん、せんだまかろしやな、そわたや うんたらたかんまん)
愛染明王 吽柁枳吽蒟吽瑟地娑 賀
(おん、うむだきうんじやく、うんしつちそわか)
霊符書写心得のこと(二)
表と裏
表は、上部に不動又は愛染の種子(梵字)を冠し、その下に、授与希望者のよく願望を聴取し、どの様な符が至当であるか熟慮の上、書写授与することである。
よく授与者の意図、心底を把握しないと願望と霊符が合致しないことがある。裏は梵字を記す。
日、月の吉凶
当門伝承の古記頭書には大不成就日いうことが記されている。
これは、この日に霊符を書写するのも、授与するのも好ましくないというわけである。
「此日事を為し初べからず。何事も成就せず。諸々の立願などには殊に忌むべし」とある。それでは不成就日を列記する。
この時は、どんなに頼まれても霊符を書くことは出来ない。
一月 三日。十一日。十九日。廿七日。
二月 二日。十日。十八日。廿六日。
三月 朔日(一日)。九日。十七日。廿五日。
四月 四日。十一日。十九日。廿七日。
五月 五日。十三日。廿九日。
六月 六日。十四日。廿二日。三十日。
七月 三日。十一日。十九日。廿七日。
八月 二日。十日。十八日。廿六日。
九月 一日。九日。十七日。廿五日。
十月 四日。十一日。十九日。廿七日。
十一月(霜月)五日。十三日。廿一日。廿九日。
十二月(極)六日。十四日。廿二日。三十日。
成就日は、
大吉日 庚寅(かのえ とら)
壬子(みづのえ ね)
壬寅(みづのえ とら)
癸卯(みづのと う)
癸酉(みづのと とり)
吉日 丙午(きのえ うま)
丙辰(きのえ たつ)
丁酉(ひのと とり)
戊子(つちのえ ね)
戊申(つちのえ さる)
戊寅(つちのえ とら)
戊午(つちのえ うま)
そして毎月霊符本尊、尊星王が降臨する日、即ち縁日は次の通りである。
縁日とは功徳倍増する日といわれ霊符書写並びに加持開眼日としている。
正月(七日)
二月(八日)
三月(三日)
四月(四日)
五月(五日)
六月(七日)
八月(十五日)
九月(九日)
十月(二十一日)
十一月(七日)
十二月(二十七日)
身、心清浄。浴水、洗面、着衣
霊符書写のときは、風呂、又は水あびをし、まず清潔にすることである。
口をすすぐべしとあるので、書写前には、うがい、洗面をすることである。
次に、身には清潔なものをまとうことである。汗ばんだ、アカのついたような下着などはさけよう。
書写する前には「瞑目鎮心」とあるが、心を禅定の状態にし、ことには天地、宇宙から”気”を身体にとり入れることを観想することである。
そして、書写するときは、息を吸い、玄気が筆先からほとばしるように思って運筆することである。
止 観・方 位
止観とは「瞑目鎮心」のことで、心を静かにし、いうなれば禅定状態になるということである。背中をのばし、息を調整し、心をととのえることである。
次に方位であるが、本尊ある場合は南向きにおかざりする。よって行者は北に向かうことになる。
ところで、霊符の貼り方であるが、それは霊符それぞれに方位が異なるが概して南向きが多いということが出来る。
一霊符ごとに、方位については示されているのでこれに従うことである。
五辛のこと
五葷(ごくん)のことである。大蒜(にんにく)。茖葱(らっきょ)。慈葱(ねぎ)。蘭葱(ひる)。興渠(にら)以上五辛(ごしん)という。
いずれも独特のにおいを発し、密教行者が加行するときも堅く禁じられている。
なお霊符を書写する場合、鴈(がん)。亀。(おおかめ)牛。犬肉。鰻(うなぎ)鼈(すっぽん)黒鯉(いせごい)鰌(泥鰌どじょう)を食することと、生大根を食することが禁じられている。
霊符結構のこと
お守りとか、護符は、神社仏閣で授かるのが通例である。神職、僧侶等、専門家による祈願、加持開眼がなされ、本尊の分身としてそれを身につけたり、家の中に貼ったりして護持を願うわけである。
ところが霊符の場合は、宗家相伝の霊符を授与され、それを自身の願いに応じて自ら書写し、そして加持し(加持開眼法は後に伝授する)そして身につけたり、家の中に貼ったりして効験がいただけるわけである。
若者が恋の成就を願うとき、他に依頼することなく、ひそかにその願いをこめ、叶えることが出来るわけである。
人間というものは、各人実にさまざまな願いを持っているものである。この願望を成就するには努力が第一であることはいうまでもないが、不思議な霊験はその願望に沿って作用する。大宇宙三光の波動がその力となってくれるのである。
世の中には、いくら努力してもよくならないという人がいる。それは見当違いの努力である場合がある。例えば肩がこっているとき力まかせにもんでも一時的しこりはとれてもスッキリしないものだ。ところがマッサージャーがツボをもみほぐすとみるみるコリがとれる。針灸の場合、針や灸がツボに当たるから効果があるのである。むやみやたらに針や灸をやっていては痛いか熱いだけである。
霊符は、このツボの役目を果たす。だから、あきらめていたことが実現したり、思わぬ展開、転換がはじまるのである。「奇跡の護符」といわれるのもそのゆえんである。
かつては、皇族、公卿、大名に限らず万民の「心の柱的存在たる霊符」であった。宗派を超えた大きな存在であった。
しかし、科学万能の世になり、仏教に限らず宗教というものが時代の変遷と共に姿を変えてしまった。とくには科学でわりきれない神秘的存在のものに対しては疑義を抱く傾向が顕著となった。
かつて「気」の世界というものは神秘的な存在であったが、今や、「気功」等を通じて理解が深まり、その治療効果が世界から熱い注視をあびるようになった。そして、科学的側面からの立証も可能となり、ようやくにして現代人が深い関心を持つようになった。
霊符も、「気」という世界と深い関係をもつ故にその観点からすると効験についての疑問点も解消する。
古人は、科学とかを云々する前に、率直に大宇宙に織りなす正なる、善なる、順なる法則を信じ、その力にわが願望を託した。それが故か、大宇宙の力はそれに率直に応えてくれた。いってみれば、「信じる心」が根底に理屈なしにあった。理屈とか、理論とか、科学というものは、ある時には必要であるが、この幽玄の大宇宙を考えるときにはごく一部に過ぎないし解し得るものではない。
最近は「霊」とか「気」の世界というものを興味本位にとらえがちである。マスコミがその風潮を作り出したのかもしれないが、こういった世界はもっとまじめで、地球上の生きとし生けるものの根本である。
ただ人間は強いようで弱い存在である。何をしても、何をやっても、どうしようもないとき、未知で不可思議なこれらのものにすがろうとする。そしてフト気付くのである。「科学万能ではすべては解決しないな」と。
ところが古人は本能的にこういった世界を知り信じていた。だから救われたのである。 「医者や薬を信じない病者」は救われないのである。大宇宙の大原則、大法則を信じない人はこれらに託することが出来ないから救われないのである。